読者の声

「闇の中の祝宴」を評価する (新日本文学会会員)青野 武弥

 第27回新日本文学賞小説部門は入選作なしで佳作2編挙げている。(…中略……。この作品への)選評は似たようなもので、例えば(A)氏は「定時制高校のやる気のないつっぱり生徒たちに、すべもなくふりまわされる教師を描いた点に、今日的リアリティがあるが、なにかひとつ対処法を見つけていれば、と不満が残る」と書いている。(B)氏は同じく「受身で観察者的過ぎるのが、不満である」といい、(C)氏は「なにが、生徒たちの精神を荒廃させているのかが読み取れないから、風俗的小説の域を超えられなかったのだ」と決めつけていた。(……中略……)
 佳作小説「闇の中の祝宴」を読んで成るほど選評のとおりだと思った人もいたと思うが、私は日が立つにつれてこれはそんな通り一ぺんの評価ではすまされないぞという気がしてきた。新日本文学会の会員には、小学校から大学まで教師と名のつく会員がかなりいる。日本の国家も国民も教育に関しては異常なまでに熱心で、教科書問題から少年犯罪まで情報は氾濫しているが、この手の小説には余りお目にかかったことがない。(中略……高校大学進学率は極端なまでに達している。……)そう言った上昇指向の教育環境の中で、高校定時制がどのような位置に置かれているか(…中略…)夕暮れから深夜までの破滅に瀕した教育の現場で、何人かの教師、何人かの生徒、教科と事件、その人間関係がいきいきと、巧みに描かれている。教師はともかく、生徒についてはこれほどユニークに精細に描かれている小説を見たことがない。国男、総史という硬派の生徒。修、満男という自由な個性派、智子、和代、瑠里の3人の女生徒も印象的でそれぞれ特徴的である。昼間全日制の生徒とはかなり異なった世界であり、「生徒が十分描き分けられていない」とする(C)氏の批評には首をかしげる。「学校がどうしてこうなってしまったのか」「暗澹としてしまう」荒廃の原因は言うまでもなく明白なことだ。(…中略…)この時代の申し子たちが、集団で恣意的になるのは十分うなずけることだ。知りながら対策が講じられないところに問題がある。
 しかし、小説の主人公にそんなこいを言わせたって始まらない。また現場の教師、管理職の校長といえどほとんど無力といっていい。給食室の掃除から、たばこの吸い殻集めまでする教師が哀れで、危険で幼児っぽい狼藉者の生徒への怒りに絶句してしまうかもしれないが、あえて描いた作者に敬服した。よく読んでみると、この教師はため息をつきくたびれ果てながら、この生徒たちをこよなく愛し、彼らの最善の未来を模索してやっている。あきらめてもいないし、絶望もしていない。プリントによる個別指導、履歴書から演繹する自我の目覚め。高卒のライセンスが世の中生きていくための条件になることを意識させる取り引き。(…中略…)確かに真面目な教師の仕事は
至難の業になる。
 委員の一人、(D)氏はかなりの関心を示していたが、それもそのはずで、「○○○○」という小説を35年前に新日本文学に発表していて、教職の出身である。この小説ではつっぱり中学生徒に占領された教室で、赴任してきた気骨のある教師が立ち向かう。組合の立場から話し合いで生徒を指導しようとする若手教師と、校長教頭の管理職側からの勧誘の狭間にあって、生徒の実態を知るのは自分だと生徒の集まりに接触するが、その睡眠薬遊び、不純異性交流になす術もなく立ち往生するという内容である。当時の政治と文学の影響もあって、あからさまにそれに反抗したような教師らしからぬ教師像を描いて話題に上った作品ではあるが、生徒像は今回の「闇の中の祝宴」にくらべると数段見劣がする。その(D)氏が、作中主人公の引用するフーコーの権力論にふれて「ファシズムにつながる権力は否定されなければならないが、権力にならない、別方向の「強さ」は考えざるを得ないのではないか」と述べ、「生徒の方に、ファシストめいた芽が出てくるとき、私たちの主体は立ち往生ではいられない」と警鐘を発している。これは見当違いだ。
 いわくつきの過去をもつめぐみという生徒と、レポートを書かせようとする教師のやりとりが面白い。単位を取らせるためというおしつけでなく、自分をよく知るため、君を知りたいためと言葉を探していくうち、書きたくなければ書かなくてもいい、単位のために少しでも書けとなり、「ほんじゃ、強制?」と鋭く反問される。そこで教師は「知識をおしつける権力よりも、権力の前で自分を見つめることを強要する権力の方がいやらしいのではないか」と思い至る。これは鋭い。これは強さ弱さの問題ではない。フーコーがどんな学者か知らないし、教育が丸ごと権力と結びつくのか疑問だが、もし国家がファシズムの道を再び選ぶ日が来たら、それに反抗することができるのは案外この連中であって、偏差値教育を駈け上った優良児たちではないかもしれない。ドキュメントとしての迫力に幻惑されて、何か未来的な解決策や力を示唆しないと満足できないのは読む側に問題がありそうだ。
 意志とか、合理性とかで解釈しても浮き上がってしまう世界である。だが、この一見腑甲斐ない教師と生徒達にはしなやかで純粋な無償の愛が流れている。最後の紙吹雪に、その愛が象徴されているような気がしてならない。

(書評)
  深層心理の発掘 『体の中で廻るコマ』     青 野 武 弥


 ………『体の中で廻るコマ』は6編の短編小説の収録である。いずれも 「新日本文学」に発表された。97年11月号掲載の「闇の中の祝宴」はその年度の新日本文学賞の佳作に入賞したものだ。この小説は教育の崩壊した現場を描いているが、冒頭に述べたような歴史観には一切ふれていない。多分、選者を惑わせたのは、そのあたりの常識もある。しかし、深刻な教育現場の荒廃は時事的話題性があり、的確な描写とクールな表現で選考委員の目を引きつけたのだろうが、その選評は作者の苦心のモチーフを十分すくい上げたものではなく、常識的批評に終わっていたと記憶している。
 この作者の、いわゆるリアリズムを越えて、人間の内面に迫る作法は、戦後文学で、椎名麟三が『深夜の酒宴』で試みた方法、深沢七郎が『楢山節考』でとらえた人間描写に匹敵する新しい文学である。残念ながら、地味な、落ちこぼれ人生は目に留まりにくい。戦争被害や、苛酷な権力闘争などをテーマにしたエンターティメントに比べると、都会における定時制高校の変質、ての施しようもない無気力、劣等生やすぐ切れる暴力生徒を生んだ時代の背景はここでは語られない。無策な教職員や学校当局には腹正しさしか感じないかもしれないが、教育基本法の見直しやら小中高校から大学まで、試験制度の弊害、学力の低下などが騒がれている割りには、一般人の関心は低い。その原因も対策もここでは触れない。夜の教室に集まるさまざまな生徒の丹念な描写がある。そして人間として対する教師の迷いや逡巡が、時に気弱に語られる。フーコーの『祭司権力』と信者との関係と教育を比較している点を考えさせられる。教え導くことの欺瞞性、鋭いが、ノイローゼと見られかねない。
 この手におえない、劣等生や暴力生徒と対等に会話し、その進路に心を砕いている主人公の教師に、彼らが学校中のトイレットペーパーを動員して、紙の雪だるまを作り、屋上から紙吹雪を舞わせる最後のシーンは、ユーモラスでもあり、涙が出るほど感動する場面だ。もっとも、彼ら登場人物の心の底に満ち満ちた愛に、感動が湧いてきたのは二度三度と読み直した末だったが。
 その定時制教師の、索漠とした通勤、私生活の中で癒しと潤いをもたらすものを無意識のうちに探ったのが「山葡萄」で描かれている。それは故郷の野山で山葡萄を摘む幼馴染みの女性や、それを送ってくれた母親であったり、団地の向かいの部屋に引っ越してきたマネキン人形のような女であったりする。夜のコンビニに屯する若者や、学校の生徒と約束してはぐらかされた箱根めぐりなど、都会の孤独に忍び込むさまざまな対人関係が幻想のように描かれていく。ウォークマンで聞くエンヤの曲など、やや並列的に話が終始し、最後にドアの前に山葡萄を下げた女性を立たせているのは、小説としてまとめ過ぎた感がある。「誰かが外で待っている」では、主人公がまだ学生だったころ、学生運動に警察が介入し、学友の女性が捕まる。釈放されて訪ねてきた彼女とのエピソードが続き、生活をともにするはずが心ならずも別れて三年がたつ。「電話が鳴った。ゆう子の声だ。……幼児の声がまつわりついている」「やっと階段を下り切る。体のどこかが震えている……」女と再会する時の感情が実にリアルに描かれている。(が実は、幻想)佳編である。……「ガラスの箱」は登校拒否を起こした重傷の生徒との、関係の修復を根気よく続ける教師を描く。この題材は作者の小説の主要なテーマのひとつで、親にも見放された家庭内暴力と無気力な引きこもりは、今では大きな犯罪の温床にすらなっている。「体の中で廻るコマ」は最近作。新日本文学に発表された比較的長い意欲作だった。教育現場の共通テストやら、偏差値のコンピューター処理など、読者の理解の及ばなかった点もあったが、作者の意図は、終戦後に臨時に就職した教員から、大学を出て正式に教職についてから定年近くまでの教員生活を通して、「体の中で廻るコマ」のようなものの存在に注目した点。……生徒の何気ない感慨から触発されるのだが、……教職の専門性とは別のあらゆる職業人に共通する人生そのものへのアプローチに主題があると読んだ。ちなみに、動くものの姿勢の制御、方向の安定に欠かせないのが、「コマ」の原理だ。                         
「シルバーパス」は若さを自認していた主人公が、シルバーパスをもらって初めてバスに乗る時の、屈折した居心地の悪さを描く。年金生活者の70歳という年齢、肉体の老化とそれを意識しない自意識とのジレンマが巧みに描き出されている。東京という、人間関係の薄弱な世界も背景にある。居酒屋で偶然隣り合わせたホームレスとの会話に実にラジカルなアウトロウの感情の表白が展開されていて、読んでいてだじだじとなる。最後に目的地に着きながら方角がわからなくなり、一緒に降りたガングロ娘の後をついていき、交番の警官に「……あのじいさん、行くところがわからなくなってしまったんですって」と告げられ、「突然、何か身を支えてくれていたものがはずされた感じで、慄然とする」。このブラックユーモアに思わず、まさかと笑ってしまった。合評会で、よく計算された小説と批評されていたが、それ以上に作者に備わった鋭い観察力と、感性に感心した。さながら名優の名演技を見せられたときのように、笑いながら、身につまされた。好短編である。一冊の本になって、あらためて作者の文章力の高さに驚いた。

今週の一言B E N  (都立高校教師、作家) 渡 辺  勉 

 都立上野高校の社会科研究室で先輩の同僚であった秋葉安茂氏の第3短篇集『体の中で廻るコマ』(菁柿堂)を読む。いずれも「新日本文学」に発表されたもので、だいたい一度は眼を通した作品である。現在の学校システムに適応できない若者たちを前にして、闇の中で立ちすくんでしまう高校教師を主人公にした作品で、リアリズムからの方法上の脱却を試みている。「〜のように」という比喩の表現が多いこと、「闇」とか「迷路」とかいう言葉が多様されることなどが、読んでいて気になるが、どの作品も主人公自身をシステムを担う立場に生きている者として、相対化する視点を失っていないところに、この作者の誠実さをみる。「ガラスの箱」は、不登校から引きこもりの生活に自ら追い込んでしまった、下松俊之という少年と、高校の担任である(ぼく)との、いってみれば体を張った交流を描いていて、読後こころに重いものを印象として残す。何回かの家庭訪問でついに言葉を返してくれた俊之と、神宮球場に野球を観戦しに行った場面は感動的である。
 野球は惨敗だったが、球場を後にするときの彼の顔は、さばさばしていた。長い間、彼の顔を蔽っていたガラスの箱がなくなったかのようだ。あのとじこもりの部屋へ戻るのが、惜しい気がする。「どうだい、だいぶ遅いから、今日はぼくのところへ泊まって行かないか」
 冗談めかして言ってみる。「帰ってもどうせ一人だから……」 彼は、あいまいに言葉をにごす。
 トップに「闇の中の祝宴」という題の作品を置いた、この作者は、椎名麟三の研究家としても知られた人である。「社会のただ中にある本来的自己の表出にこころをくだきました」と「あとがき」(私見では余計なページと思う)にあるように、学校をめぐる環境やシステムに大きな問題性が存在することを暗示させながらも、大地に足をつけて立つ人間がどこに蘇り得るか、作中人物の身体の内部にそれを探ろうと努めているのである。
 なお「ガラスの箱」の主人公の高校教師は将棋がアマチュア5段となっていて、部屋でゲームをして一日を過ごしている少年と、そのことをきっかけに会話が生まれる設定で、これは巧みであるが、秋葉氏は実はほんとうに5段なのである。昨年亡くなった小生の父(同じ5段)と将棋の仲間であったことを記しておきたい。(以下省略) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ まだ、お二人の感想と紹介記事が手元にありますが、時間切れで、後日に譲ります。  よろしくお願いいたします。